同門に松本楓湖や梶田半古、鈴木華邨、三島蕉窓らがいる。容斎の指導は一風変わっており、そして極めて厳しかった。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられた。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。

ところが3年経つと、容斎は反対に放任主義を取った。容斎は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を強く求めた。弟子時代の逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想している。こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていく。一説に、元々省亭は是真に弟子入りしようとしたが、菊池容斎の方がいいだろうという是真の紹介で、容斎に入門することになったという。こうして容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐ。

渡辺省亭『花鳥画帖(迎賓館赤坂離宮七宝下絵)』より「鵲図」 東京国立博物館蔵

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