師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵(平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いた。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もあるが、単に省亭の性向によるものにも見える。そのため言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳、横山大観、川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘している。例えば、今日名作とされる栖鳳の「絵になる最初」(京都市美術館蔵)を、「先ず評判の栖鳳を見ましたね、いけない、あれは駄目だ、此前の「あれ夕立に」か、あれもそんなに佳いとは思わなかったが、今のよりはずっとよかった、あの時丈が一寸足りないと思ったが、今のは又ひどい、第一着物がいけませんよ、どうも塗り損なひぢゃないかと思う、それでなければ衣文の線がもっと見えなけりゃならない、一体あの紺と云う色は日本絵の具にはないのだからね、きっとありゃ塗り損ひだよ、うまく行かないから濃い墨で塗りつぶす、其上に藍をかけると丁度あんな紺に見えます、私もよくやった覚があるが……ハッハッ、それにあの手が骨ばって、女の手は肉で包んでなけりゃね、栖鳳と云う人は動物は描けるが人物は描けない人らしい、顔は大いし髪が又ひどいし、髪は生際が一番でね、西洋画ならいいが日本画ぢゃ生際が出来なければ髪が描けるとは云はれない、それから上方ではどうか知らぬがあの中を障子にして、上下にキラキラの型紙のある……あれは東京では引出茶屋にしか有りません、キラキラの型紙と云う奴がまた一番安っぽいものでね……」と談じている。

省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、日本橋浜町の自宅で68歳で亡くなった。墓所は台東区の潮江院。法名は法華院省亭良性修良居士。省亭の忌日を、親しい人々は花鳥忌と呼んだという。省亭の作品は当時の来日外国人に好まれ、多くが海外へ流出した。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、大英博物館、ヴィクトリア&アルバート博物館、ライデン国立民族学博物館、ベルリン東洋美術館、ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されている。

渡辺省亭『花鳥画帖(迎賓館赤坂離宮七宝下絵)』より「行々子図」 東京国立博物館蔵

Comment are closed.